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| 第2次世界大戦中にピザを発給してユダヤ難民を救った杉原千畝氏の業績を展示している資料館が福井県敦賀市にある ことを知り、ぜひ訪ねたいと思い、敦賀に行きました。資料館は「人道の港敦賀ムゼウム」という名称で、「ムゼウム」とは ポーランド語で「資料館」の意味とのことです。 |
資料館には、敦賀駅前から 「ぐるっと敦賀周遊バス」に乗り、「金ケ崎緑地(敦賀ムゼウム)」で下車
松原線「きらめきみなと館」下車
東浦線「金ヶ崎緑地(敦賀ムゼウム)」下車 (備考)東浦線は土曜・日曜・祝日のみ運行
敦賀駅から気比神宮まで徒歩15分、「人道の港敦賀ムゼウム」まで徒歩40分。

| 敦賀市は天然の良港・敦賀港を擁し、古くから大陸との交流拠点として栄えてきました。明治から昭和初期にかけての敦 賀港は、敦賀からシベリア鉄道を経由してヨーロッパ各都市へと結ぶ国際港に発展していました。 大正時代にはシベリアから逃れてきたポーランド孤児が、また第2次世界大戦中には、リトアニアのカウナス領事代理杉原 千畝氏が発給した「命のビザ」を携えてやってきたユダヤ難民が上陸した港として歴史に残されています。このように多くの 外国人がこの港で救われたことから、敦賀港は「人道の港」とよばれています。 |
| ポーランド孤児とは、ロシア革命後の内戦状態であったシベリアで家族を失い、過酷な状況にあったポーランドの子どもたち のことです。孤児を救うために、日本赤十字社は1920(大正9)年から1922(大正11)年にかけて孤児の受け入れを行い、合計 763人のポーランド孤児が敦賀港に上陸しました。当時の敦賀の人々は、菓子・玩具・絵葉書等の差し入れや宿泊・休憩所 などを提供するなど、温かい手を差し伸べました。(敦賀市ホームぺージより) シベリアで飢えと寒さに苦しめられた孤児たちは、大半が栄養失調で弱っており、皮膚病や百日咳などにかかっていました。 医師や看護婦の手厚い看護と、人々の温かい手助けで健康を取り戻した孤児たちは、別れを惜しみながら祖国ポーランド へ旅立っていきました |
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| 人道の港敦賀ミゼウム | ポーランド孤児たち | |
| 1940年から1941年、ユダヤ難民はナチス・ドイツの迫害等から逃れるため、リトアニアのカウナス領事代理・杉原千畝が発給した 「命のビザ」を携えて、リトアニアからウラジオストクを経て、敦賀港に上陸しました。 苦難の旅路を経て敦賀に降り立った彼らは、敦賀の街が「天国(ヘブン)に見えた」と後に語っています。 上陸した彼らに当時の 市民は、リンゴなどの果物を無償で配ったり、銭湯を無料で開放したりしました。(敦賀市ホームぺージより) |
| 優秀なロシア通の外交官だった杉原千畝(すぎはら・ちうね 1900~1986年)氏は1939年8月にリトアニアの在カウナス日本領事 館領事代理となりました。 1940年7月18日早朝、迫害を逃れて、ポーランドからリトアニアに逃亡してきた大勢のユダヤ避難民が閉鎖間際の領事館に殺到 しました。入国ビザを必要としない南米キュラソーなどへ行くための日本への通過ビザを発給してほしいためでした。 杉原氏は外務省に許可を求めましたが、「正規の手続きが出来ないものにビザを発給してはならぬ」との返答でした。 苦悩の末に杉原氏は「首になっても構わない、人道上拒否出来ない」と、すべてのユダヤ難民にビザを発給する決心をしました。 杉原氏は1か月間少しの時間も惜しんでビザを書き続けて、最後のビザは領事館を退去するために家族と乗った列車の車窓から 手渡したそうです。 総数2139通のビザが発給されました。そのビザにより日本に行き、命の助かったユダヤ人は約6000人と言われています。 杉原氏と家族は戦後、ロシアの捕虜収容所で抑留された後に1947年に帰国。帰国後、杉原氏は外務省から、独断でビザを発給 したことの責任により解職され、職を転々としましたが、その後モスクワに駐在員として単身赴任して15年間勤めた後、1986年に 86歳でその生涯を閉じました。 1991年に鈴木宗男外務政務次官により、44年ぶりに杉原氏の外交官としての名誉が回復されました。杉原幸子(ゆきこ)夫人と 家族が招かれ鈴木氏が謝罪しました。 その後2000年に河野洋平外務大臣が謝罪して、外務省からの正式な名誉回復がなされ ました。杉原氏が亡くなって14年後のことです。 |
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| 杉原千畝とリトアニア領事館 | 査証(ビザ) | ユダヤ難民 |
| 金ヶ崎緑地の南に2棟並んで建っている「赤レンガ倉庫」は、外国人技師の設計によって、明治38(1905)年に建てられ、当時は石 油貯蔵庫として使われていました。内部は広大な空間を設けることが出来るよう柱が1本もない小屋組構造なのが大きな特徴です。 平成21年1月には国の登録有形文化財に登録され、港まち敦賀の歴史を象徴する建築物のひとつとして有名です。 平成27年10月には港と鉄道のジオラマとレストランを備えた商業施設として生まれかわりました。(施設情報より) ジオラマ館には、全長27.6m、奥行7.5mの大きなジオラマがあり、明治後期から昭和初期の敦賀の町並みも見ることができます。 |
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| 敦賀港 | 敦賀赤レンガ倉庫 | ジオラマ |
| 敦賀市立博物館は昭和2(1927)年に竣工した旧大和田銀行本店建物を活用した博物館です。建設当初は北陸初のエレベーター を備え、レストラン、迎賓館、集会場など、銀行でありながら公共性を兼ね備えた昭和初期の銀行建築の一例です。また、港町敦賀 の歴史を象徴する近代建築物でもあります。平成29年、建物(旧大和田銀行本店本館)は重要文化財に指定されました。 (敦賀市ホームページより) |
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| みなとつるが山車会館 | 敦賀市立博物館 | |
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| 大理石のカウンター | 右奥に大金庫がある | 大金庫 |
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| 大理石の階段 | 貴賓室 | 北陸初のエレベーター |
| 大和田銀行というと、何か聞き覚えのある名前ですね。俳優の大和田伸也さんと、大和田獏さん兄弟が敦賀の商人、大和田荘兵衛 の子孫にあたるそうです。荘兵衛の2代目を継いだ大和田荘七が創設した大和田銀行に大和田兄弟の父親が勤めていたことがある とのことです。大和田伸也さんが敦賀出身ということで、「人道の港敦賀ミゼウム」の館内シアターのナレーションを担当しています。 |
| 平安時代の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明(あべのせいめい)を祀る神社です。数々の火災から町を守ったとして、防火の守りとして 信仰を集めています。晴明が占いに用いたといわれている謎の石「祈念石」がご神体として、祭壇床下に安置されています。 祈念石に賽銭を投げ入れて石の上に載れば、願いが通じるといわれています。 |
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| 晴明神社 | 祭壇下の小窓の中に祈念石がある | 祈念石 |
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七柱のご祭神をまつる北陸道の総鎮守。市民に「けいさん」の愛称で親しまれる気比神社(けひじんぐう)は、大宝2(702)年の建立
と伝えられています。明治に官幣大社となりました。高さ11mの大鳥居(重要文化財)は春日大社(奈良県)・厳島神社’(広島県)と 並ぶ日本三大木造大鳥居の一つです。元禄 2年旧暦8月(現在の9月終り頃)には松尾芭蕉が訪れ、境内には松尾芭蕉の像と句碑 があります。月の光が照らす境内の美しさを読んでいる句もあり、日本百名月にも認定されています。'(敦賀観光公式サイトより) |
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| 大鳥居 | 拝殿 | 九社の宮 |
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| 長命水 | 松尾芭蕉の像と句碑 | 日本100名月に認定(2021年10月認定) |
| 2001年に放送されたテレビ番組「その時歴史が動いた}で、6000人の命を救った外交官、杉原千畝のことを知り、とても感動しました。 福井市に行くことになり、その資料館が敦賀市にあることを知り、福井から敦賀に行きました。資料館で、実際に書かれた査証(ビザ)な どを見て、杉原氏の勇気と博愛精神に心が打たれました。また、ビザを書き続ける夫と同じ気持ちで、支えていた幸子夫人も立派だと思 います。 |