
福島の大内宿(おおうちじゅく)に行ったので、以前に行ったことのある中山道の妻籠宿(つまごじゅく)と
馬籠宿(まごめじゅく)、東海道の関宿もあわせて載せてみました。
宿とは宿場のことです。江戸時代、街道の要所要所にあって旅行者の休憩のための茶屋、宿泊のための
旅籠(はたご)や人馬の継立をする施設のあった集落です。
公武の宿泊は本陣、脇本陣を利用し、一般の人は旅籠を利用しました。

2017.5.29
会津若松駅から会津鉄道で湯野上温泉駅まで35分。駅から車で10分(渋滞でなければ)の所
にあります。下野街道(しもつけかいどう)と呼ばれた会津と日光を結ぶ街道の宿場町として栄え
ました。伊達正宗が小田原参陣、豊臣秀吉が奥羽仕置きで大内宿を通行した記録があるそうです。
また、イギリスの女性旅行家のイザベラ・バードが明治11(1878)年に「美濃屋」に宿泊して、後
に出版した「日本奥地紀行」に記しています。
明治以降、主要な道路から外れるなどから山あいの集落として残り、昭和59(1981)年4月に
国指定「重要伝統的建造物群保存地区」となりました。
湯野上(ゆのかみ)温泉駅
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| 茅葺き屋根の駅舎は日本でここだけ | |
一里塚
街道で一里ごとに道の両側に土を盛り、榎や松の木などを植えて距離を
示す目印とした塚で、荷役や駕籠の賃料を支払う目安にもなりました。
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| 大内宿南一里塚 | 旧街道の名残り |
大内宿
30軒以上の茅葺き屋根の民家が道の両側に均等に並んでいて、妻側(長方形の建物の短辺の壁面)が
街道に面して造られています
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美濃屋(みのや)
当時の美濃屋(名主の阿部家)には身分の高い人が利用できる格式の高い部屋と一般の旅人用の部屋
があり、江戸の末に没落した本陣の役割を担っていました。現在は宿屋は廃業して中津川人形などを扱う
お土産品店です。「きんつばあります」の張り紙をみて注文したら「おやき」が出てきて、所変わればですね。
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民宿、 蕎麦屋、民藝品などを売る土産物店などが建ち並び、家の縁側には商品がいっぱい並べられています。
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高倉神社
平清盛との戦いに敗れた高倉宮以仁王(後白河天皇第二皇子)と王の愛馬である名馬を祀った神社です。
大内宿の通りの中間部にある一の鳥居から横道に入り、のどかな田園風景の中を数百メートル歩くと二の
鳥居があります。道端が清々しい緑で彩られた参道を進むと階段の上に拝殿があります。拝殿の奥に樹齢
800年の大杉があったのですが見落として戻ってしまいました。
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江戸時代にタイムスリップしたような町並みの大内宿をゆっくり見学したかったので すが、近くにある「塔のへつり」を見に行きたかったので、時間に余裕がなく足早に 見学しました。それで、ねぎ一本でそばを食べる「ねぎそば」が食べられなかったこ とと、復元された本陣の「町並み展示館」の見学が出来なかったのが残念でした。 |
大内宿から車で20分離れた所に(会津鉄道の搭のへつり駅から3分)「塔のへつり」があります。
「へつり」とは方言で断崖、絶壁、急斜面、川岸などの険しい道という意味です。ここは大昔は
海でした。浸食と風化の作用で、100万年の歳月をかけて創り上げられた崖の自然美です。
吊橋を渡ると、ちょっとスリリングな石の階段があり、虚空蔵菩薩を祀ってある祠に行けます。
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2014.3.22
妻籠宿(つまごじゅく)は江戸と京を結ぶ中山道(なかせんどう)69次の42番目の宿場です。
全国の伝統的町並みが姿を消してゆく中で、いち早く町並み保存に取り組んだ宿場町で、住
民は「売らない・貸さない・壊さない」の住民憲章をつくり、ここで生活しながら町並み保存に協
力しています。保存地区は、妻籠宿、寺下の町並み、大妻籠の三地区です。
住民の保存運動が評価されて、昭和51(1976)年に全国初の国指定「重要伝統的建造物群保
存地区」に選定されました。
妻籠宿
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| 本陣 本陣と庄屋を務めた島崎氏宅 島崎藤村の母の生家(平成7年に復元) |
脇本陣奥谷 林家の旧宅で藤村初恋の人 おゆふさんの嫁ぎ先 |
高札場(こうさつば) 幕府が庶民に対して禁制や法度等 を示した掲示板{江戸時代の物を復元) |
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| 格子のはまった独特の木造住宅が建ち並び、おみやげ屋さん、甘味処など多彩です。 | ||
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| 御嶽山の修験行者が広めたとされる百草丸が | 下駄(ねずこ下駄)も売っています。 | 郵便局のポストは目安箱です。 |
寺下の町並み
最初に保存運動が行なわれた妻籠宿の原点となる町並みです。二階部分が道へ少し張り出した「出梁造り
(だしばりづくり)」や一階の細い縦長の格子を組んだ「竪繁格子(たてしげこうし)」など江戸時代の建築様式
が残された家が建ち並んでいます。
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| 「枡形の跡」を過ぎると寺下の町並み | 二階に張り出した「出梁造り」 | 江戸時代中期の木賃宿(上嵯峨屋) (昭和44年に解体復元) |
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| 町並みの最後は民家になっています。 | |
大妻籠
寺下の町並みから中山道を20分ほど歩くと大妻籠に着きます。10軒足らずの小さな集落ですが、江戸時代
の宿場の名残で民宿などの営業をしている家が多いようです。中山道から外れて坂道を登って行くと県宝の
藤原家住宅があります。また中山道に戻って庚申塚まで歩き、大妻籠に戻って、妻籠宿に帰ってきました。
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| 大妻籠の家並み 軒に防火用の漆喰の袖卯建 (そでうだつ)が付いています。 |
藤原家住宅 (長野県宝) 17世紀後期の農家の住宅で県内住居 で最も古いものです。(平成元年解体修復) |
庚申塚(こうしんづか) 庚申塚がありますが、後ろに松の木と土 盛りがあるので一里塚があったようです。 |

馬籠宿(まごめじゅく)は妻籠宿から中山道を通って、8kmの所にあります。中山道43番目の宿場
です。急な山の尾根に沿って道路が作られていて、急斜面の両側に石垣を築いて家が建てられてい
ます。明治28(1895)年と平成17(2005)年の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべ
て焼失しましたが、その後復元されて現在の形になりました。文豪島崎藤村の故郷としても有名です。
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| 上入口より下がる | 馬籠宿から見た恵那山 | |
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| 石畳の道の両側に店が並んでいます。 | 藤村記念館(藤村の生家の本陣の跡に建っている) |
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名古屋からJRで中津川へ行き(1時間30分)、中津川から馬籠までバスで20分、 バスを乗り換え、馬籠から妻籠まで30分の行程で妻籠宿に行きました。 最初の見学地の妻籠宿では店を見るのが楽しく、また大妻籠まで足をのばしたの で時間に余裕がなくなり、次の馬籠宿ではゆっくり見ることが出来ませんでした。 お茶屋で五平餅を食べたのが思い出です。しかし最初に妻籠宿に行ったのは私 にとっては正解だったと思います。 |
2014.4.25![]()
関宿は三重県亀山市にあります。東海道53次の江戸から数えて47番目の宿場町として、参勤交代やお伊
勢参りの人々で賑わい、栄えました。江戸時代後期から明治時代にかけて建てられた町屋が200軒余りも
現存していて、昭和59(1981)年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
関駅から駅前通りを10分程歩くと関宿に突き当たります。町並みに合わせたデザインの百五銀行関支店
を前に見て、右に折れると江戸側で、左が京側になります。まず、右側に行ってみました。
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| ここから木﨑(こざき)の町並み。 | 坂を下ります。 | 平屋か中二階の民家が続きます。 |
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東の追分 東の追分は関宿の町並みの東の入り口です。東海道と伊勢別街道の 分岐点になっていて、江戸に向かう人とお伊勢参りに向かう人がここで 別々の道を行きます。ここにある大鳥居は伊勢神宮の一の鳥居になっ ていて、伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮の後に宇治橋の南詰の 鳥居がここに移築されます。 |
東の追分から戻ります。途中で横道に入り、関神社、延命寺、瑞光寺を観てから、関宿の中町の町並みに入ります。
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| 関神社 | 延命寺 | 瑞光寺 |
中町の町並みに入ると商家が多くなります。
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| 中町の町並み | 鶴屋 鶴屋は玉屋とともに関を代表する旅籠 の一つで、江戸時代末に脇本陣を務め ました。格式の高い千鳥破風(ちどりはふ) と虫籠窓(むしこまど)があります。 |
山車倉(だしぐら) 祭りで使う山車を入れておく倉です。最 盛期には16基あったのが、現在は4基 になり、山車倉が四ヵ所にあります。「関 の山」の語源になっています。 |
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| 百六里庭 関宿の町並みの中に造られた小公園 で関宿が江戸から106里あることから 名づけられました。 |
眺関亭(ちょうかんてい) 百六里庭の通りに面した建物の二階 が展望台(眺関亭)になっていて関宿 が一望できます。 |
橋爪家 江戸時代の初めから両替商を営み、 江戸にも出店を持つ豪商でした。 三角屋根がめづらしい。 |
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| 玉屋 関で泊るなら鶴屋か玉屋と言われた 旅籠です。今は復元されて歴史資料 館になっています。(壁の装飾は宝珠の玉) |
関の戸(深川屋) 創業370年余の和菓子店で、銘菓「関の 戸」だけの販売をしています。瓦屋根をつ けた庵看板が有名です。 |
関地蔵院 本尊の地蔵菩薩座像はわが国最古の 地蔵菩薩と言われています。本堂、鐘 楼、愛染堂が國の重要文化財です。 |
関宿は東の入り口である「東の追分」から、木崎(こざき)の町並み、中町の町並み、新所(しんじょ)
の町並み、と言う三つの町並みで出来ています。地蔵院から西方向が新所の町並みで、関宿の西
の入り口である「西の追分」で宿場が終わっています。西の追分は東海道と大和・伊賀街道の分岐
点です。時間がなかったので地蔵院の先には行かなかったのですが、西の追分まで行けたら良か
ったかと思います。
✲ 「関の山」の語源
関宿の夏祭りに出る山(関東で言う山車)が立派であったことから、「これ以上のものはない」という
意味で使われるようになった。また、山車が街道筋の建物の屋根ぎりぎりを通過する様子から、これ
が目一杯という意味で語源とする説もある。(ウィキペディアより)

2017.9.2
| 静岡に行ったので、静岡にあった東海道53次の宿場町に行ってみることにしました。静岡には蒲原・由比 興津・江尻・府中・丸子の6つの宿場町と東海道中の難所と言われた薩た峠・宇津ノ谷峠の2つの峠があ ります。永谷園のお茶づけ海苔の東海道五拾三次カードの中にある「名物茶店」のとろろ汁で有名な丸子 宿に行ってみることにしました。丸子は鞠子とも書かれて、「まりこ」と読みます。 丸子宿は東海道53次の20番目の宿場町で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が24軒、人口が795人という 東海道中で一番小さい宿場でしたが、鎌倉時代からの宿駅で交通の要衝として重要視されていました。 丸子宿は、静岡駅前から中部国道線の路線バスで約28分、新丸子バス停で降りて旧東海道に入ります。 |
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| 旧東海道 民家が建ち並んでいますが、道幅や形 状は当時のままのようです。 |
しらい酒店 江戸時代の屋号は三州屋で、三州瓦の 職人であったそうです。 しらい酒店は明治40年に創業。 |
問屋場跡 馬と人足で荷物を宿場から宿場へ送る 業務をしていた所。 (人足100人、馬100頭を擁していた) |
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| 丸子宿脇本陣跡 明治天皇が明治元年(1868)に立ち寄ら れた「明治天皇小休所阯」の碑がある。 |
丸子宿本陣跡 脇にある立札には、江戸時代の丸子宿 の規模などが記されている。 |
丸子宿脇本陣跡 明治天皇が明治2年(1869)に立ち寄ら れた「明治天皇小休所阯」の碑がある。 |
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| お七里役所の碑 | 当時の街道の詳細絵図 | 格子戸のある家 |
| 江戸時代の初期、徳川ご三家の一つの紀州家が幕府の動向を知るために、江戸屋敷と領國まで146里 ある中の七里ごとの宿場に設けた連絡所です。そこに五人一組の飛脚を配置、仲間(ちゅうげん)から選 ばれた健脚で剣道、弁舌に優れた飛脚が、昇り竜、下り竜の模様の半纏を着て、「七里飛脚」の看板を持 ち、腰に刀、十手を差してご三家の威光を示しながら往来していました。 |
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| 丁子屋は1596年(慶長元年)創業の400年以上続くとろろ汁の老舗です。広重の「東海道五拾三次・丸子」に 描かれていることでも有名です。とろろ汁は地元で生産された自然薯をすって、白味噌で味付けしたものです。 丁度お昼時だったので、とろろ汁定食・丸子(1,440円)を食べました。有名店なので沢山のお客がつぎつぎ と来店していました。 |
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| 歌川広重の浮世絵の看板 | 松尾芭蕉の句碑 | 十辺舎一九東海道中膝栗毛の碑 |
| 丁子屋さんの店の前には歌川広重の丸子の浮世絵の看板の他、松尾芭蕉と十辺舎一九の碑があります。 松尾芭蕉の句碑には「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」の句が刻まれています。 十辺舎一九の東海道中膝栗毛の碑には「けんかする夫婦は口をとがらせて鳶(とんび)とろろにすべりこそ すれ」の句が刻まれています。東海道中膝栗毛の中に、店の夫婦が口げんかの挙句、こぼしたとろろです べって転んでしまうという場面があるところから読んだ句です。 |
| 丸子宿に行ってみて、丁子屋さんの茅ぶき屋根などに昔の姿が残されていましたが、他には宿場町であった と感じられるものがほとんど無い街道でした。石柱や木札が建っているので本陣や脇本陣がここにあったの だなと分かる感じでした。東海道の近代化とともに宿場町も消えていったのかと思います。東海道筋はほとん どの宿場町がこのような形になっているのかもしれません。でも後で丸子の歴史を調べて、豊臣秀吉がここを 通過したとか、十辺舎一九がここでとろろ汁を食べたとか、お七里役所の紀州飛脚のことなどを知り、当時に 思いをはせてみるのも楽しいことでした。後で知ったのですが、丸子から藤枝に向かって6km程の所に宇津 ノ谷峠があり、古い町並みが残っているそうです。また、その近くには平安時代から旅人が通っていた、難所 の道である「蔦(つた)の細道」があります。在原業平が京を離れて関東へ下る際に通った場所で、「伊勢物語」 にツタやカエデが茂る暗い細い道と書かれているので蔦の細道として有名になった古道です。 蔦の細道は豊臣秀吉が小田原攻めの際に新しい道を北側に開くまでの約700年間利用されていました。 |

| 再度静岡へ行く機会があったので、前回に見逃した宇津ノ谷峠(うつのやとうげ)へ行ってみました。静岡駅前から 中部国道線のバスに乗り、丸子宿を通り越して6分程で「宇津の谷入り口」に到着しました。蔦の細道と宇津ノ谷の 集落は国道を挟んで左右に分かれています。先に蔦の細道へ行ってみました。 |
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| つたの細道に入ると木の根の張り出した道、勾配のある坂、階段などが続きます。道幅も狭くて、昔はさらに蔦や楓が 生い茂っていて大変な難所であったことが伺えます。体力の無い私は10分くらい歩いてから元の入り口に戻りました。 国道に出て、歩道橋を渡って、反対側の宇津ノ谷の集落に向かいました。 |
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| 奥に平成と昭和のトンネルが見えます。 | 民家が見えてきました。 | 宇津ノ谷の家並みです。 |
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| 家々に屋号が付けられています。 | ||
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| 秀吉公お羽織の由来 天正18年(1590年)秀吉が小田原の北条氏を攻めた時、宇津谷(うつのや)に休息した。その際に、当家の 祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起の良い話をしたので、帰りに立ち寄って与えたのが 当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後に家康もこの羽織を観て、記念に茶椀を与えたが、これも 当家に所蔵されている。(石川家の家の前にある木札の説明によるものです。) |
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| 宇津ノ谷側の入り口 | レンガ造りの内部 | 壁のレンガ積み |
| 明治のトンネル(宇津ノ谷隧道)は明治9年に日本初の有料トンネルとして開通しました。現存最古のレンガ造りのトン ネルで、1997年5月29日に国の「登録有形文化財」に指定されました。現在は歩行者専用として保存されています。 |
| 宇津ノ谷には昔の峠の宿場のころにあった家並みの集落が残っています。また、つたの細道や旧東海道、そして明治、大正 昭和、平成のそれぞれの時代に造られたトンネルと道路があり、今も残されているので、さながら道路の歴史を観るようです。 つたの細道は秀吉が小田原攻めの際、行軍するには狭いので別に道を造り、これが東海道となり整備されました。明治に 入り、文明開化で交通量が増大したので、トンネル(明治のトンネル)を掘り、馬車や人力車が通れるように緩やかな勾配の ジグザグ道路が造られました。大正から昭和にかけて造られたトンネル(大正トンネル)は自動車が普及したことにより造ら れました。昭和のトンネルは戦後、交通量が増大したため新たに造られ、平成のトンネルはトラック輸送の増大から造られ ました。現在は昭和のトンネルを上り車線、平成のトンネルを下り車線にした国道1号線となっています。 |