
| 日本開国の歴史の中に出てくる下田の街に行ってみたいと思い、滞在していた静岡県藤枝市から東海道本線の電車(7:11発)に 乗り熱海でJR 伊藤線に乗り換え(9:03発)、伊豆急下田(10:34着)に行きました。 時間が限られていたので駅前からタクシーに乗り、最初に玉泉寺に行きました。玉泉寺見学後、吉田松陰が密航を企てた弁天島 に回ってもらい、そのままタクシーで「ペリー上陸の碑」まで行きました。「ペリー上陸の碑」から徒歩で史跡をみながら伊豆急下田 駅へ戻る行程でした。(タクシー代 約3000円) 「伊豆急下田」駅から玉泉寺までのバス 須崎・爪木崎行きのバス乗車 柿崎神社前下車 徒歩2分 (1時間に1本) 「伊豆急下田駅から玉泉寺まで徒歩 約25分 |
| 開国の歴史 嘉永6年(1853)6月、アメリカのマシュー・ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航、開国を要求してきました。鎖国中の日本の幕府は一旦ペリー を退去させて翌年まで回答を延ばしました。嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率いて江戸湾に入港、幕府を威圧して条約をせまり、つい に同年3月3日に日米和親条約が締結されました。日米和親条約を締結したペリー艦隊7隻が同年3月10日から21日にかけて下田に順次来航 しました。翌年3月に開港となる箱館(現在の函館)の調査に行っていたペリーが帰港した5月に日米和親条約付録下田条約の交渉が了仙寺で 開始されました。5月25日に条約書の交換が行われました。目的を果たしたペリー艦隊は同年6月1日に帰国のため下田港を出港しました。 |
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玉泉寺と吉田松陰踏海企ての跡
| 和親条約付録下田条約が結ばれると、玉泉寺は米人休息所、埋葬所に指定されました。安政3年(1856)7月にタウンゼント・ハリス米国総領事 が通訳官ヒュースケンを伴い、下田に上陸しました。玉泉寺を領事館として、2年10ケ月滞在し、日米修好通商条約を締結しました。また、境内 には米人の墓5基と露人の墓4基が建てられています。玉泉寺は昭和26年(1951)に国の史跡文化財に指定されています。 |
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| 玉泉寺 | 米国黒船乗員の墓地 |
露国黒船乗員の墓地 |
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| ハリスの遺品や資料などが展示されている | カーター大統領玉泉寺来訪の記念碑 | 吉田松陰・金子重輔踏海企ての跡 |
| 吉田松陰・金子重輔密航失敗 嘉永7年(1854)3月吉田松陰と金子重輔が海外事情を知ろうと、ペリー艦隊への密航を企てたが失敗に終わりました。3月27日の夜二人 は弁天島の近くから荒海を小舟を漕いで、米艦に漕ぎつけ渡航を懇願しました。日本の国法を破ることは出来ないというぺりーの意志が 通訳から伝えられて,戻るように説得されました。乗って行った小舟は流されて無くなっていたため、二人は艦隊のボートで岸に送り返され ました。流された小舟には二人の刀と手荷物が残されていたので、これが奉行所に見つかることを懸念して、二人は自首したので下田奉 行所に連行されました。鎖国中の日本では、密航の企てが厳罰(死罪)の対象でしたが、二人の志の高さを感じ取ったペリーが、江戸に 送られていた二人の身を案じ、幕府に、極刑を与えず寛大な措置をと望んだこともあり、国もとで蟄居するという軽い罪ですみました。 |
| 唐人お吉の真実 昭和の初期に発表されて、世に知られるようになった「唐人お吉」物語は、斉藤きちという女性がモデルになっています。ただし、この物語 はほぼフイクションで書かれています。斉藤きちは下田に入港する船の船頭たちの洗濯女として働いていました。ハリスが健康を害して、 介護人を要求したため、きちが召使いとしてハリスに仕えることになりました。きちがハリスの世話をしている時に、腫物ができていたので 3日で暇を出されてしまいました。解雇後のきちは異人と交わったという偏見により船頭たちの洗濯が出来なくなり、生活も困窮しました。 その後、横浜で芸妓や酌婦をし、横浜で再会した幼馴染の鶴松と下田に戻って、髪結いをしながら所帯を持ちました。だが数年で離別。 小料理屋の「安直桜」を任されて開業しましたが、酒癖の悪さから二年で廃業。晩年は病気で身体が不自由になり51歳(数え)で稲生沢 川に転落して命を落としました。引き取りての無かったきちの亡骸は宝福寺住職により葬られ、お墓が建てられています。 世に出回っている「お吉」とされている写真は、別人の写真であり、この物語が多くの人に真実と思われているのは、歴史を改ざんし、ハ リスの人格、日本開国の功績を歪めていることになります。(玉泉寺の資料等参考) |
| ペリー艦隊上陸の碑 | 下岡蓮杖の碑 | ペリーロード |
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| 黒船来航150周年に向けて2004年に設置 されたぺりー提督の胸像。 胸像の左にあるのが米国大統領ジョージ・ ブッシュから贈られたメッセージプレート。 右には米国海軍から寄贈された錨が飾 られている。 |
下岡蓮杖は米国領事館の通訳ヒュースケン から写真の手ほどきを受けた後、横浜で米 人写真家ウィルソンからカメラを入手。資材 や薬品等の実験を重ね、苦労の末写真術を 習得して、日本最初の写真館を開業する。 「日本商業写真の祖」と言われている。 |
ペリー艦隊が日米下田条約締結のために 了仙寺まで行進したことから名付けられた。 会見の日、一行は祝砲を轟かせ、大砲4門 を先頭に、軍楽隊の演奏にのって、300人 の水兵が剣付き鉄砲を肩にかけて、了仙寺 まで堂々と行進したと言う。 |
| 長楽寺 (日露和親条約締結の寺) | 了仙寺 (下田条約締結の寺) | 欠乏所跡 (米との事実上の貿易開始) |
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| 長楽寺で、ロシアの使節プチャーチンと日本 側全権との間で日露和親条約が締結された。 両国の批准書の交換が行われると、日米和 親条約の批准書の交換もこちらで行われた。 |
了仙寺本堂で下田条約が調印された。調印 式では日本側は畳を積み重ねた上に正座し て、椅子に着席した米国側と目線を合わせ たと言われている。 |
欠乏所は黒船が航海上必要な薪・水・食料 石炭等を供給する場所だが、漆器・織物・陶 磁器・雑貨まで売られていて、事実上の貿易 拠点になっていた。5年後横浜に移転。 |
| 吉田松陰拘禁の跡 | 宝福寺(坂本龍馬飛翔の地) | なまこ壁の家 |
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| 密航に失敗した吉田松陰とその弟子金子 重輔が拘禁され、取り調べを受けていた 場所。当時は長命寺というお寺があった。 (後に廃寺となり無くなった)二人はここ での取り調べの後、江戸に移送されるま での十日間平滑の獄に移された。 |
宝福寺に滞在中の土佐藩主山内容堂を勝 海舟が訪れ、坂本龍馬の脱藩の許しを乞い、 その身を自分に預けて欲しいと懇願し、許さ 、れた。その後の龍馬の活躍はここから始ま ったと言われている。 お吉の墓もここに建てられている。 |
なまこ壁は竹の骨組みの上に土を何層も 重ね、その土壁に平瓦をはめ込み、継ぎ目 に漆喰を盛り上げて固めて作る壁で、白い 斜め格子模様が美しい。この家は約200年 前に建てられたもの。 |
| 稲田寺(とうでんじ) | 下田公園から下田港と市街を望む | あじさい祭り |
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| ロシア使節プチャーチンとの交渉に当った 応接掛川路聖謨の宿舎になったお寺。 安政の東海大地震(1854)による大津波で 犠牲になった人達を供養する津浪塚が建立 されている。お吉の恋人「鶴松」の川井家の 墓もここに建っている。 |
下田公園で毎年6月1日から6月30日に下田あじさい祭りが開催されます。 下田港を見渡す小高い山にある下田公園の広大な敷地には、15万株 300万輪のアジサイが咲き誇り、品種も日本種から西洋種までさまざ まなアジサイを見ることが出来ます。 |
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| 日米和親条約 下田と箱舘を開港し、この2港で燃料の薪や石炭・食料・水を補給する。下田に領事の駐在を認める。船や乗務員を保護する。日本が 他の国と結んだ条約の中で有利な条件を自動的にアメリカに与える(片務的最恵国待遇)。 |
| 日米和親条約付録下田条約 開港場の下田・箱館両港の細則を定めたもの。アメリカ人の遊歩区域。上陸場。民家出入り。休息場。物品購入の仕方などの規定. |
| 日露和親条約 安政元年12月(1855)下田で、日本とロシアの間に結ばれた条約。下田・箱舘・長崎を開港。得撫(うるっぷ)島より北はロシア領。択捉(えとろふ)島より南は日本領とされた。樺太はロシア人、日本人どちらも住める雑居地と定めた。
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プチャーチン来航と「安政の大津波」 ぺりー艦隊が帰国して4か月後の嘉永7年10月(1854)、プチャーチンは約2000tの新鋭艦「ディアナ号」で下田に来航。 11月3日第1回 日露交渉が福泉寺にて開かれた。次の日、午前10時頃、安政の大地震に伴う大津波が下田湾を襲った。町内の家屋は流出全壊841 戸、溺死者122人、半壊25戸、倒壊を免れた家は4戸のみの大惨事だった。「ディアナ号」も津浪に巻き込まれ、甲板の大砲が転倒して 船員が下敷きになり死亡。船も大破した。「ディアナ号」は修理のため伊豆西海岸の戸田に向かう途中、駿河湾で沈没。乗員500人は 地域住民に全員救助された。帰国用の代船の建造が戸田で行われ、ロシア人と日本の船大工が協力しあって、およそ100日程で建造 した。完成した船は「ヘダ号(戸田号)」と名づけられた。建造に参加した船大工は洋式造船の技術を習得することが出来、その後の日 本の造船の基礎となった。 |
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| 観光列車の金目鯛号。景色を眺めるように座席が窓に向いている。他に黒い車体の黒船号、高級感のある特急サフィール踊り子号など。 、 |
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| 下田の街は街の中心から半径500m圏内に史跡やグルメの店などが点在しています。伊豆急下田駅からぺりー上陸の碑まで徒歩で 20分です。時間があれば、ゆっくり、のんびり散策を楽しめる街のようです。 この小さな町に黒船が来た時は、人々はどんなに驚いたことだろうと思いを馳せます。300人の水兵がぺり―ロードを行進したときは 大変な騒ぎだったことでしょう。この小さな町に開国の歴史が沢山詰まっていることを知って、楽しく学ぶことが出来ました。 |