福井の史跡を訪ねて

                                                                                                 

 福井は東尋坊、永平寺、恐竜などで知られていますが、戦国時代には朝倉氏による「北陸の小京都」と言われる程の大城
下町が存在していたこと、また織田信長や柴田勝家、お市、浅井三姉妹ゆかりの地であることを知りました。
今回は戦国武将ゆかりの史跡をたどってみました。


一乗谷朝倉氏遺跡

福井駅西口➄のりば 京福バス(一乗谷東郷線)ー28分


日本のポンペイと呼ばれる大規模遺跡が発見された

一乗谷朝倉氏遺跡は、いまから約500年前、戦国大名・朝倉氏が5代103年間わたって支配した城下町です。最盛期には
人口一万人を超え京都、大阪堺に続く大都市であり、雅やかな文化の華を咲かせました。しかし朝倉氏は、天正元年(15
73)に信長により三日三晩、焼き打ちに遭い、その長い歴史に幕を閉じました。(復元町並みの案内看板より)
その後、灰燼となった城下町は土に埋まり、江戸時代には城戸ノ内村という農村になりました。昭和40年代になって、この
地の水田改良事業が行われた際に遺構が発見されました。昭和42年(1967)から発掘調査が始まりました。以来50年以上
も発掘調査と整備が進められてきましたが、戦国時代の城下町全体が遺跡となって残された、日本のポンペイと呼ばれる
大規模遺跡となっています。
 昭和46年に国の特別史跡、平成3年に特別名勝、平成19年に重要文化財(遺跡出土品の2343点)の指定を受けました。

一乗谷は東西500m南北約3kmの地に多数の寺院や庭園、館などの遺跡が点在しています。朝倉館跡近くには上級武家屋
敷群と中級武家屋敷群、町家群で形成された城下町の遺跡があり、その一部が200mの道路沿いに復元されて「復元町並」
として公開されていたので、朝倉館跡と一緒に見学しました。 


復元町並
     
左が武家屋敷、右が町家  左が上級武家屋敷、 右が中級武家屋敷  上級武家屋敷の門構え 
     
町家  町家(焼き物を売る店)  各家ごとに井戸がある 
   
町家の裏にある便所 便所の中に大と小の便器がある 屋根は板葺きで石を載せている

復元武家屋敷
      この屋敷は約30m四方の基準的な広さを持ち、周囲に土塀を巡らし、
 西の道路に向かって表門を開いている。屋敷内の南半に6間×4間の
 主殿を配し、これに接して東南隅に座敷と庭を設けている。北半には
 蔵や使用人が居住したと考えられる納屋や井戸等が配されている。
 これらの建物は、発掘調査の結果に基き、絵画等の資料を参考にし
 て推定原復を行った。
 屋根は割板で葺かれ、室内には畳も敷きつめられ、舞良戸(まいらど
 明障子(あかりしょうじ)等の引戸が多く用いられている。
 木材の加工にはかんな、やりかんな等当時の道具を用いている。
 全体にかなり進んだ建築様式の住宅であったことが知られ、一乗谷
 の文化水準の高さが伺われ、興味深い(復元武家屋敷前の案内看板より

     
表門  井戸  便所 
     
主殿の内部  畳敷きの部屋で将棋を指す人  基礎石の上に柱が立っている 

             大工道具               

     
チョウナ   道具は上からヤリカンナ、オノ、チョウナ チョウナを使った削り跡

 朝倉館跡

 復元町並を出て道路を渡るとすぐに、一乗谷川に架かった橋があり、橋を渡って朝倉館跡に行きます。
     
   ここには朝倉氏の5代当主、朝倉義景が暮らした館がありました。
四方を塀で囲み、西側の山辺を除く三方に土塁を廻らせたつくりで
土塁内側の平坦地には10数棟の建物が建ち並んでいました。
室町幕府15代将軍、足利義昭(秋)を迎えた際には、中庭(花壇)
を取り囲む主殿や会所などの南側の一角で儀式や宴会が行われ
ました。(朝倉館跡内にあった案内看板より)
敷地は6500㎡の広さです。                                     
               

          

     
一乗谷川に架かる橋を渡る  堀に囲まれている  堀の橋を渡って唐門へ 
     
唐門  唐門の裏側   館跡は雪で埋まっていた 
     

展示写真より
     


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 朝倉氏遺跡の復元町並を観て驚いたのが、戦国時代に各家に井戸とトイレがあったことです。一乗谷川から水を引いて、水道設
備が整えられていたのでしょうか。戦国時代なのにその生活意識の高さに感心しました。
ちなみに、朝倉館跡にある唐門は朝倉義景の菩提を弔うために、この地に建てられた松雲院の山門で、秀吉公が寄贈した門で
あるとも言われています。義景の時代の門跡はまだ地下に埋まっているとのことです。館跡内には日本最古の花壇の跡など観る
物が沢山あるようですが、雪が積もっていて観られなかったのが残念でした。

          

福井駅周辺の史跡 

福井駅西口広場(恐竜広場)には、フクイティタン、フクイサウルス、フクイラプトルと名付けられた恐竜のモニュメントが設置されて
いて、動いたり鳴き声をあげて旅行者を迎えてくれています。そこから徒歩で10分程のところにある戦国武将、柴田勝家の「北の庄
城址」へ行きました。




福井駅前の恐竜

   
福井駅 フクイティタン  左がフクイラプトル、右がフクイサウルス 


北の庄城址

 一乗谷朝倉氏の滅亡の後、柴田勝家が越前を治め、「北の庄城」を築城しました。一乗谷の住民、商人、寺社などは北の庄城下
に移り新しい城下町が形成されました。
柴田勝家は織田信長の筆頭家老であり、情に厚く、勇猛果敢な武将でしたが59歳まで独身でした。60歳で、清須会議の折に織田
信長の妹「お市の方」の再婚相手に選ばれて結婚しました。
織田信長の亡き後、織田家の主導権を巡って羽柴秀吉と柴田勝家は対立していましたが、1583年(天正11年)「賤ケ岳の戦い(し
づかたけのたたかい)」で柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ、北の庄城でお市の方とともに自害し,城には火が放たれました。
お市の方の三姉妹(茶々、お初、お江)は秀吉に引き渡されました。茶々は後に秀吉の側室(淀君)になっています。

柴田神社鳥居  柴田神社  三姉妹神社
     
柴田勝家公の銅像  お市の方の銅像  浅井三姉妹の銅像 
     
堀跡  神社の床下で見つかった石垣  北の庄城址が柴田公園になっている 

             清須会議
              
天正10年6月2日(1582年)に明智光秀が起こした「本能寺の変」によって織田信長が自害したために、天正10年6月27日
             にその後継者を決めるために、清須城で開かれた会議。

             お市の方
             織田信長の妹で戦国一の美女と言われたお市の方は、政略的婚姻により、近江小谷城主の浅井長政(あざいながまさ)に嫁ぎ
             三女をもうけた。浅井長政と織田信長が戦うことになり、浅井長政が戦に敗れて自害。お市の方と三人の娘は織田家に引き取
             られた。天正10年10月柴田勝家と結婚するも、天正11年4月柴田勝家と共に自害。享年37歳。
    


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 北の庄城址には「堀」と「石垣」の一部がみつかっていますが、遺構はほとんどないようです。城址の上に建っている柴田神社は
柴田勝家とお市の方を祀っています。すぐそばに三姉妹神社も建てられています。柴田勝家、お市の方、三姉妹の銅像がありま
した。お市の方の数奇な人生を思うと感慨深いものがあります。柴田勝家との結婚は6ヶ月程でしたが、勝家に「逃げなさい」と言
われても逃げずに勝家とともに自害する、強い意思を持った女性だったのでしょう。
ちなみに柴田神社は縁結びと「美モテ祈願」の神社になっています。


福井城址

北の庄城址から福井駅に戻り、駅から5分程のところにある福井城址に行きました。堀の外から見ると石垣の上に近代的なビルが
建っていてびっくりしましたが、福井県庁でした。 

福井城は徳川家康の次男である結城秀康が6年の歳月をかけて天下普請で慶長11年(1606年)に築城しました。約270年間17代
にわたり越前松平家として繁栄しました。内堀、石垣、天守台などの遺構が残っています。

近年、城址の復元や整備が行われています。 
  平成20年(2008年)屋根と壁のついた御廊下橋が復元された。
  平成29年(2017年)築城当時からあった井戸の「福の井」が整備された。福の井は福井の語源になったという説がある。
  平成30年(2018年)天守下にあった山里口御門が復元された。

     
堀と石垣   天守台 天守台の上にある「福の井」 
     
福の井  山里口御門  御廊下橋 
     
御廊下橋を臨む  御本城橋の向こうに建っている県庁  御本城橋を渡って県庁へ行き交う車


            天下普請
              安土桃山時代や江戸時代において、天下統一を果たした者が、他の大名の財力を消耗させるために行った、築城・修理補佐の
             命令である。費用は大名が負担した。

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